岩崎弥太郎
担当 : 安芸市歴史民俗資料館 / 掲載日 : 2025/02/12
東洋一の海上王三菱の祖「岩崎弥太郎」

天保5年(1834)、父弥次郎、母美和の長男として井ノ口村に産声をあげた弥太郎は、14歳で十三代藩主であった山内豊熙(とよてる)に漢詩を献じ、 書を講じて褒美をもらう程の秀才でした。
安政元年(1854)、江戸遊学前に、近くの妙見山の星神社に参拝した弥太郎は、扉に「後日 英名ヲ天下ニ轟カサザレバ 再ビ帰リテ此ノ山ニ登ラジ」と大書。大きな志と強い意志を胸に、江戸の安積艮斉に入門しました。
しかし翌年、酒席の喧嘩がもとで父親が投獄されたのをきっかけに、帰省。あまりに激しい免罪の訴えが奉行所の怒りを買い、やがては彼自身も獄中の人となります。安芸郡を追放された彼は吉田東洋と出会い、それを機にあらたに飛躍の道を拓いたのでした。
その後、東洋の後を受け継いだ後藤象二郎の下で、弥太郎は次々に才覚を発揮し、長崎に設立した土佐商会で腕をふるった後、明治6年(1873)三菱商会を設立。以前に長崎で坂本龍馬から得た示唆により海運業に着眼します。そして、幕末から続く諸外国の汽船会社などとの激しい戦いを制し、"東洋の海上王"と異名をとるようになりました。
明治18年、享年52歳。疾風のごとく世界を駆け巡った異才、岩崎弥太郎は生涯を閉じますが、死の床で「東洋の男児」と叫んだという熱き志は、弟、弥之助にしっかりと受け継がれ、鉱山、造船、不動産、金融へと拡大し、世界に名だたる現在の三菱グループへと発展してゆきました。

岩崎弥太郎の生家
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安芸市歴史民俗資料館
電話:0887-34-3706
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