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三菱創業者『岩崎彌太郎』
商工観光水産課 : 2020/03/27
岩崎 彌太郎
岩崎彌太郎は天保5(1835)年、岩崎家の長男として井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)で生誕しました。彌太郎は幼い頃から才能にあふれた活発な少年でした。安芸市には生家があり、庭では彌太郎が少年の頃に作ったといわれる日本列島を模した石組などを見ることができます。
安政元(1854)年、彌太郎は勉学のため江戸(現在の東京)へ向かい、著名な学者であった安積艮斎(あさかごんさい)に入門しました。
しかしその翌年、酒席での喧嘩で父親が大怪我をしたとの知らせを受け、急遽帰省します。その際、藩の役人と争い投獄されますが、この機会に同じ獄中にいた商人たちから算術や商売を学んだといわれています。
慶応2(1866)年、土佐藩直営の「開成館」に登用され、翌年には土佐藩開成館長崎出張所(長崎土佐商会)に派遣されました。長崎土佐商会は、土佐藩の物産である樟脳や和紙、鰹節などの輸出を行い、その利益で軍艦や武器を買いました。彌太郎にとってこの仕事は非常に苦労の多いものでしたが、手腕を発揮し、ビジネスの基本を身につけ、商才を開花させていきました。
明治元(1868)年の長崎土佐商会閉鎖に伴い、彌太郎は明治2(1869)年に長崎から開成館大阪出張所(大阪土佐商会)へ移ります。明治3(1870)年、大阪土佐商会を藩営より分離して独立させた商社「九十九商会」が設立され、彌太郎はその責任者となりました。翌年、彌太郎は「九十九商会」の経営を引き受けます。明治5(1872)年、「九十九商会」は名称を「三川商会」と改め、翌年「三菱商会」と改称しました。「三菱商会」は、その後の日本の近代化に伴い、金融・造船を中心とした大企業グループへと発展していきます。
「東洋の海上王」と呼ばれるまでに大成した彌太郎でしたが、政府は三菱の独占を警戒して、明治16(1883)年に品川弥次郎らが設立した「共同運輸株式会社」と対抗させます。両社は激しく争った末に合併し、明治18(1885)年に「日本郵船会社」を設立しましたが、彌太郎はその結果を見ることなく同年2月7日に病死します。その後は弟の彌之助が跡を継ぎ、三菱財閥発展の基礎を作りました。
岩崎彌太郎・彌之助・久彌生家
安芸市井ノ口に現存する生家は、寛政7(1795)年、第6代彌次右衛門の頃に建てられました。東北隅の4.5畳の間が三菱3代の社長(彌太郎・彌之助・久彌)が生まれた部屋です。
日本列島の庭石
表座敷の南にある庭石は、少年彌太郎が天下雄飛の夢を託して日本列島を模して作ったといわれています。「岩崎彌太郎生誕之地」記念碑
昭和37年秋に三菱関係諸会社有志によって建立されました。碑文:文学博士 諸橋轍次
岩崎彌太郎銅像
昭和61年に生誕150周年を記念して建立されました。現在は生家横に移設されています。銅 像:3m30cm
制作者:彫刻家 浜田 浩造(高知県出身)
撰 文:有光次郎(高知県出身)
揮 毫:手島右卿