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弥太郎ってこんな人

商工観光水産課 : 2009/09/01

岩崎 弥太郎


岩崎 弥太郎

 天保5(1834)年12月11日、安芸郡井ノ口村一ノ宮の地下浪人の家に生まれる。
父 弥次郎、母 美和。

  少年時代、叔父の小野順吉、小牧米山、陽明学者の岡本寧浦に学ぶ。  安政元(1854)年初めて奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)について江戸に出、昌平黌(しょうへいこう)の教授であった安積艮斎(あさかごんさい)の門下に入り、教えを受ける。その2年後、父が重傷を負わされる事件があり、帰郷。その際藩の役人と争い投獄され、翌年出獄、追放処分となり、高知城下近郊の鴨田村、神田村に住む。この頃、吉田東洋の門下生となり、後藤象二郎や福岡孝弟らと知り合う。

  安政6(1859)年吉田東洋の推挙で郷廻りの役に就き、初めて長崎へ行く。しかし、翌年無断で帰国したため、職を解かれる。文久元(1861)年郷士株を取得。東洋の死後は、後藤象二郎に登用され、藩の開成館や土佐商会でその手腕を発揮する。


  明治3(1870)年、開成館大阪商会が設立され、弥太郎が経営にあたる。1ヶ月後、名称を九十九商会と改称。現在の三菱の商標である菱形文様はこの時決められたという。翌4年廃藩置県に伴い、土佐藩所有の船舶の払い下げを受け、同5年三ツ川商会と改名。同6年に三菱商会と改名され、これを契機として発展することになった。

  台湾出兵、朝鮮江華島事件、西南の役で軍事輸送を担当することにより、政府の保護を受ける。国内諸海運業ばかりでなく、英国のP・O会社の勢力までも駆使して“東洋の海上王”と呼ばれるまでに大成した。政府は、三菱の独占を警戒して、品川弥次郎らが設立した共同運輸株式会社と対抗させた。両者は激しく争い、共倒れ状勢になり、ついに政府が仲裁に入り、両者が合併し、明治18年日本郵船会社を創立した。弥太郎はその結果を見ないまま、同年2月7日病死。弟弥之助が跡を継ぎ、三菱財閥発展の基礎を作った。

岩崎弥太郎・弥之助・久弥生家


安芸市井ノ口 寛政7(1795)年、第6代弥次右衛門の頃に建つ。
東北隅の4.5畳の間が三菱3代の社長(弥太郎・弥之助・久弥)が生まれた部屋


 <日本列島の庭石>
  表座敷の南にある庭石。
   少年弥太郎が天下雄飛の夢を託して日本列島を模して作ったという。南側から見る。

 <「岩崎弥太郎生誕之地」記念碑>
  昭和37年秋、三菱関係諸会社有志によって建立
  碑文:文学博士 諸橋轍次

岩崎弥太郎銅像


 江ノ川上公園に昭和61年、生誕150周年を記念して建立された。

  銅 像:3m30cm
  制作者:彫刻家 浜田 浩造(高知県出身)
  撰 文:有光次郎(高知県出身)
  揮 毫:手島右卿
  建立費:約4,100万円
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